都立大学

都立大ノアスタジオで、稽古場ダンスを見る。4月に予定されていた公演。他のスタジオのレッスンに人がいっぱい、商店街にも人がいっぱい。で、帰りは駅前の東急ストアで買物。

下北沢

小劇場楽園で、下北澤姉妹社の「母樹」を見る。二年前に上演した作品のダイジェスト版。四人での公演で、60分。作品のシチュエーションは、わかりやすかった。

北千住

北千住BUoYで、さんらんの「掘って100年」を見る。以前(2年前)は、駅から住宅街を通って行ったが、今回はミリオン商店街を通る。商店街といってもあまり店はなく、静かというかさみしい。スーパーもコンビニもない。

かぐや姫

クラシカジャパンで、ネーダーランド・ダンス・シアターの「輝夜姫(かぐや姫)」を見る。イリ・キリアンの代表作の一つで、1988年初演。1993年に収録されたもの。日本のおとぎ話が原作、音楽は石井真木、和楽器が使われている。外国人が描く日本物は敬遠したいので、今まで未見。クラシカジャパンが10月で終了し、これが最後のダンス番組になるので、見ることにしてみた。ありがたかったのは、日本を意識したものではないということ。「かぐや姫」をダンス化したわけではなく、「かぐや姫」はあくまでインスピレーションの源というだけで、日本的な振付、日本的な衣裳などは一切ない。ダンスと音楽と美術と照明が統合したすごい作品だ。和太鼓やティンパニなどの打楽器が舞台上に設置され、奏者も移動しながら演奏するシーンは、まさしくダンスとの競演で圧巻。

下北沢

小劇場B1で、名取事務所の「獣の時間」を見る。キム・ミンジョンの書き下ろし。いろいろな意味で恐ろしい芝居。久しぶりに夜公演に出かけたが、地下鉄が思いのほか混雑していた。オオゼキの営業時間が9時までになっているので、終演後、ギリギリで飛び込んで買物。

オックスフォードの景色

モースが刑事になりたての1960年代から、モースの壮年時代を経て、21世紀のルイスの時代まで、オックスフォードの景色がほとんど変わっていない。大学の校舎や古い建造物はそのままで、高層ビルはない。テームズ川や河岸の様子、石畳の道路、パブの中の様子も変わっていない。モース刑事とモース警部が同じ場所に立って、同じ風景を見つめるシーンは、感動的だ。もちろん、「モース刑事」が一番最近製作されているわけだが、オックスフォードの街並みが変っていないので、新人時代のモースを主人公にしたシリーズが考案されたのではないだろうか。

その後のモースとストレンジ 

ストレンジがモースの上司になってからと、モースが若かった頃とを比べてみると面白い。上司であるストレンジには、敬語も使うし、なるべく言うことを聞くようにしている。しかし、感情が激してくると、かつてのようにストレンジをぞんざいに扱う。ひどいことも平気で言う。本来なら、そこで解雇されるようなものだが、ストレンジはモースを理解しているので、軽くいなす。ストレンジがお偉ら方にえつらって、パーティやらイベントに出席することをモースはからかうが、スタレンジはそうやってモースを守っている。たたき上げのストレンジに対して、モースは自分がオックスフォード出身だとひけらかす(本当は中退)。本当に性格が悪いし、他人に対する優しさがない。しかし、モースの死後、ルイスは「モースが優しい人だったら、今の自分はいない」と言っている。人間関係はむずかしい。

モースとストレンジ

後のこと、つまり、スタレンジがモースの上司となって、モースが亡くなるまで彼を理解し、守り続けたことを考えると、二人の出会いは大事なシーン。1964年、モースが刑事になりたての頃、ある現場に行き、先に来ていた制服警官の不手際をいきなり叱る。その警官が、「あなたは誰?」と聞くので、「モースだ」と言うと、「ストレンジ」という答え。モースが、「……」と反応すると、「ジム・ストレンジだ」と名乗る。それが、二人の出会いだった。その時点では、モースの方が先輩で、階級も上。モースはストレンジをいいように利用する。モースなりに、彼のことを認めているわけだ。若い時から、モースは頭が良く、直感力もあるが、社会性がなく、人づきあいや世渡りが下手。その上、自信過剰で、他人を上から目線で見るし、人の言うことを聞かないし、人の好意を受け入れない。結婚できないのも、友人がいないのもよくわかる。ストレンジはその真逆で、着々と昇進し、ついにはモースの上司になる。モースのような人物が刑事として人生を全うできたのは、ストレンジやサーズデーのように(後に部下になるルイスもそうだが)、彼を理解している人物が近くにいたからだろう。そうした、人と人との結びつきが大事なことをモースが教えてくれている。

両国

シアターχで、NLTプロデュースの「BONOBOたち」を見る。見ざる、聞かざる、言わざるは、洋の東西を問わずの表現なのか。いずれにしても、楽しい作品だ。障害者が登場するが、障害者としてではなくて、40代のしょうもない男たちとして描かれているところがうまい。両国も七か月ぶり。

「四季」というタイトルのバレエ

「四季」というバレエが多い。つまり、「四季」という音楽が多いということだ。ヴィヴァルディの「四季」を使かったのは、プティ。「四季」と言えば一番有名な曲だが、案外バレエには使われていない。グラズノフの「四季」は、プティパが晩年に振付し、その後、クランコが振付けている。また、アシュトンが「誕生日の贈り物」で、いくつかの曲を使用している。ヴェルディのオペラ「シチリア島の夕べの祈り」の中の舞踊シーンの「四季」には、マクミランが振付し、その後、ジェローム・ロビンスも振り付けている。ところで、日本では春夏秋冬と言うが、グラズノフとヴェルディの「四季」は、冬春夏秋の順番になっている。確かに、四季を描く構成としては、暗い冬から穏やかな秋に向う方がいい流れなのかもしれない。

ガラ・プティパ

wowowで、マリンスキー劇場の「ガラ・プティパ」を見る。プティパの元振付である、コンスタンチン・ケイヘルの「四季」、バランシンの「夏の夜の夢」第二幕、「眠れる森の美女」第三幕のトリプルビル。やはり、バランシンのバレエを見るとほっとする。しかし、先日見たボリショイの「コッペリア」の方がプティパらしさを堪能できた。

下北沢

駅前劇場で、劇団匂組の「農園ぱらだいす」を見る。客席前方を空けて、ゆったりとした客席なのだが、女性客が多いので開演前の客席はかなりにぎやか。帰りは久しぶりに下北沢のピーコックストアに寄るが、閑散としている。明らかにオオザキに客を取られている。

VHSの整理 キーロフの「コッペリア」

ボリショイバレエによるプティパ振付の「コッペリア」を見たので、キーロフバレエ(現マリンスキー・バレエ)によるヴィノグラードフ振付の「コッペリア」を見直す。このバージョンの特徴は、コッペリウスとコッペリアが踊ること。コッペリウスは人々をコッペリアのとりこにしようと、わざと人が多い時にコッペリアを連れて行って、踊らせる。案の上、フランツや若い男性はコッペリアに夢中になる。第一幕第一場でスワニルダと女性たちで踊られるシーンはフリッツと四人の友人たちで踊られる。また、マズルカ、チャールダーシュは第二幕のディベルティスマンに入れられている。コッペリウスがコッペリアに人の命を吹き込もうとするところはなく、より人間的に描かれており、彼はフィナーレにも登場する。ディベルティスマンには、スワニルダとフランツのパ・ド・ドゥ以外はソロはなく、群舞で構成されている。フランツの友人四人で踊るチャールダーシュが素晴らしい。プティパの振付もいいが、新しい振付(といっても30年前のものだが)も見応えがある。

ボリショイの「コッペリア」

NHKBSプレミアムシアターで、ボイショイバレエの「コッペリア」を見る。プティパの振付の復刻版。衣裳は華やかだし、音楽はいいし、振付もいいし、楽しいし、退屈しないし、長くないし、最高のバレエだ。オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」と同じ原作なのだが、だいぶ趣が違う。オペラの方は退廃的なムードで、コッペリウスはかなり怪しげ。バレエは、のどかな田舎町の相思相愛の若い男女が無事に結婚できるまでの話に組み込まれていて、コッペリウスもどこの町にも一人はいるちょっとした変人。共通しているのは、音楽が素晴らしいこと。

ボリショイの「ラ・バヤデール」

クラシカジャパンで、ボリショイバレエの「ラ・バヤデール」を見る。グリゴロヴィッチ版の「ラ・バヤデール」は、1993年のボリショイの来日公演で見た以来。三幕構成で、影の王国の場で終了となるのは同じだが、ソロルが神の罰を受け寺院の壁の下敷きになって死ぬというラストシーンが、ニキヤの面影を追って自ら命を絶つという穏やかな終わり方に変っている。改めて見てみると、グリゴロヴィッチが人物の内面を描こうとしているのがよくわかる。構図としては、インド版の「白鳥の湖」で、ソロルは王子、ニキヤはオデット、ガムザッティはオディール、大僧正はロットバルトだろうか。因みに、このバレエで一番好きなところが、黄金の仏像の踊りだ。身長の低い男性ダンサーの出世役みたいなもので、かつては熊川哲也も踊っている。このシーンは本来(マカロワ版では)、最終幕の結婚式の始まる前の寺院で、踊られる。仏像が踊るというのは非現実的なことなので、誰もいない寺院で踊るからこそ、その素晴らしさが生きるように思う。しかし、影の王国で終了する構成だと、第二幕の祝宴のディベルティスマンに入れられ、大勢の前で踊ることになってしまい、そうすると、この踊りの意義が半減してしまうように感じる。ところで、この公演は2013年のものだが、かつてドゥグマンタを踊っていたシトニコフが大僧正を踊っている。ソビエト時代からいる人が出演していることに感激。

恵比寿

エコー劇場で、日本劇団協議会の「クライムス オブ ザ ハート」を見る。ベス・ヘンリーの作品は、サム・シェパード作品の女性版という印象。アメリカでは、都心と田舎では、タイムスリップしているという状況が日本人にはわかりにくいかもしれない。

下北沢

本多劇場で、福島マリコ企画プレオム劇番外編「中年女、老害…朗読ライブ」を見る。一回だけの公演。ひと席ずつ空けての客席でほぼ満席。プレオムのいつものメンバーがほとんど出ているので、客席もにぎやか。一瞬、マスクをつけて見ていることを忘れてしまいそうだった。オオゼキの営業時間が午後9時までになっているので、終演後ぎりぎりで駆け込んで買物。

ピカソとバレエ・リュス

クラシカジャパンで、ローマ歌劇場バレエの「パラード」「プルチナルラ」を見る。両方共レオニード・マシーンの振付で、フォーキンが去った後の後期のバレエリュス時代の作品。フォーキンの頃は、バクストが美術・衣裳を担当していたが、ディアギレフはフォーキン同様、バクストにも飽きたらしく、ピカソに依頼するようになったようだ。しかし、ピカソは個性が強すぎるので、マシーンのバレエというより、ピカソの作品を音楽とバレエ付きで見ているような印象である。バレエリュスの時代は、ディアギレフの次に美術家の力が強かったようで、映画「ニジンスキー」の中でも、「ダフニスとクロエ」の美術と衣裳をバクストがディアギレフに見せ、フォーキンはだまって決まるのを待ち、その美術・衣裳に合せて振付をするという様子が描かれていた。「パラード」の場合など、ピカソの他に、コクトー、サティがいたわけだから、マシーンの立場は微妙だったように想像する。

ロイヤル・バレエのアシュトン・プログラム

WOWOWで、ロイヤル・バレエのアシュトン・プログラム「ラプソディー」「二羽の鳩」を見る。アシュトンとはあまり縁がない。かつてアシュトンはNYCBのために振付したり、ABTでアシュトンの作品が上演されたりしていたらしいが、80年代後半にはアシュトンの作品をニューヨークで見ることはほとんどなかった。「ラプソディー」は1980年に初演されたラフマニノフの「パガニーニの主題によるラプソディー」に振り付けた作品。バリシニコフのために振付されたものだが、正確に言えば、バリシニコフを見に来た人が満足できるための振付である。そこのところが、振付家のプライドとの葛藤なのだろう。バランシンがバリシニコフのための作品を作らなかったのは、彼のそういうプライドが許さなかったからかもしれない。男女のプリンシパルと男女6人ずつのコールドだが、ほとんどが、男性プリンシパル(つまりバリシニコフ)のソロ。パ・ド・ドゥもあるが、ほんの少し。女性プリンシパルは添え物のように見える。バリシニコフ自身はその後、この作品をあまり踊っていないようだし、ABTの芸術監督時代、アシュトンの作品をほとんどレパートリーに入れていない。(記憶では「夏の夜の夢」「ランデヴー」くらい)「二羽の鳩」は、以前小林紀子バレエ・シアターがよく上演していた。平野亮一と金子扶美がジプシーで出演していて、見応えのあるダンスを見せている。二人共、長身で、体格が良く、顔立ちがはっきりしていて西洋人の中にいても全く見劣りしない。アジア系ダンサーは、背が低くて、控え目でかわいらしいというかつての印象とは全く違う。平野亮一の役は、コールドの中の一人という位置なのだが、その中でしっかり存在感を見せていた。

新宿三丁目

紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYAで、劇団民藝の「ワーニャ、ソーニャ、マーシャと、スパイク」を見る。チェーホフのパロディーのような現代劇。養子の意味合いが日本人にはちょっとわかりにくいかもしれない。長台詞がくどいところがあったり、最後がうまくまとまりすぎなのが難。新宿は3月以来、7ヶ月ぶり。